八軒家浜船着場が開港した。
「港」は「さんずい」と「ちまた」でできている。語源に諸説あるが、要は水と街が結びついて賑わう所というニュアンスだろうか。その意味では、京阪電車の天満橋駅と直結する新・八軒家浜は、文字通り陸海の結節点としての「港」といえる。水都大阪のシンボルターミナル港の誕生だ。 かつて八軒家浜は、坂本龍馬や森の石松が使った三十石船や、蒸気船が京都と大阪を結んだ交通の発着場であり、「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほどに大ブームを巻き起こした熊野参詣道の出発点でもあった。かつて広域観光の手段として船と港は大いに機能していたのだ。
大阪市電気局(当時)などが戦前に製作したプロモーション映像作品『大大阪観光』には、市内を遊覧する小型船が登場する。その名も観光艇「水都号」。淀屋橋近くで乗客を乗せた水都号は、「マリンガール」のガイドのもと、颯爽と名所を走り抜ける。造幣局、公会堂、中之島公園・・・大大阪時代もやはり観光船が活躍していた。
明治初期の八軒家。
宿屋、柳の木、常夜灯が見える。
近くには、河川をパトロールする
水上警察署もあったらしい。
『淀川往来/向陽書房』より。
明治初期の淀川蒸気船。
八軒家と伏見の間を1日3便結んだ。
浮世絵師・初代長谷川貞信の筆によるもの。
神戸市立博物館蔵。
1935年製作の『大大阪観光』からの一場面。 中之島付近をクルーズする水都号の勇姿。
同じく『大大阪観光』から水都号の乗降風景。
中央に見える制服の女性がマリンガール。
現在、水都の観光をリードしようと舟運事業者たちが奮闘している。そのひとつである一本松海運にお話しをうかがってみた。なぜ観光舟運をはじめたのでしょう?
「最初は、大阪を元気づけたいという強い思いからでした」。挑戦は、水位によっては運航が困難な大阪市の中心部を囲む川−「水の回廊」を、いつでも航行できる船の建造から始まった。低い橋の通過時には船体を沈める構造をもった船が完成し、JR西日本や大阪観光コンベンション協会と協同して、2003年の春、落語家の案内で市内を一周する「落語家と行く なにわ探検クルーズ」が実現した。その後は、水都再生の気運も手伝って徐々に評判を集め、現在でも80%を超す乗船率で運行しているそうだ。乗船者数は年間2万5千人以上、その8割が他府県からのツアーだという。リピーターも多い。「大阪は観光集客の取り組みでは、京都・奈良・神戸に比べ後発といえる。「なにわ探検クルーズ」が、大阪に行ってみよう、大阪で1泊しようという動機付けになってくれれば嬉しいですね」とのこと。
昨年10月には舟運事業者8社が発起人となって「大阪シティクルーズ推進協議会」も発足した。メンバーは観光船事業者の大阪水上バスを初め、屋形船、水陸両用バスで話題のNPO「大阪・水かいどう808」や関西電力、JR西日本など大阪のリーディング企業が顔を揃える。公的機関もバックアップし、「大阪シティクルーズ」という共通ブランドのもとに、市民・企業・行政が手を携えて水都大阪の魅力価値を高めることを目指している。「船着き場が整備されても、船がなかったら意味がない。私たちは、ひとつひとつは微力だけれども、自分たちが大阪の再生を担っているという気概を持って、力を合わせて水都をプロモーションしたい」と意気込む。
陸上の既存観光コンテンツが港で観光船とつながり、そしてまた別の港へ。他にない大阪らしい旅のシーンが生まれるだろう。ベイエリアとの接続や、伏見、枚方など他都市との広域連携の夢もふくらんでいる。
現在の大阪の舟運観光を担う船たち。2008年3月29日の八軒家浜船着き場開港セレモニー。
現在の八軒家浜船着場。
京阪電車天満橋駅の改札階からダイレクトにアクセスできる。
大阪の良さのひとつは、人なつっこさ、飾らない気さくなホスピタリティーだといわれる。だから、ビジターは大阪に人とのふれあいを期待している。
ツーリストは大阪に来たら船に乗る。そして、港々で皆友だちになり、皆と皆とが笑顔でつながる、そんな水都観光時代の到来が楽しみだ。
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