世界一おおざっぱな大阪地理史。
むかし西に開いた湾があった。湾の中に南北に長く延びた半島があった。その半島の先に、人は運河を開削し、港を開き、都を造った。難波は水の上に建つ国際的な港町だった。
なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな(王仁)
この有名な歌は、仁徳天皇の即位に際して奉納されたものだという。ここには、古代の大阪の港(なにわづ=難波津)で冬を耐えてきた桜が、春になって花開くさまが讃えられている*1。王仁(和爾吉師)は、4世紀末から5世紀はじめ頃に百済から渡来した文化人と伝えられている。遠く故郷を離れた異邦人は、難波の春の光景に心を震わせたのだろうか。
やがて、湾は堆積物によって次第に陸地となり、まちは西へと拡大していった。いま、港はまちから遠ざかり、「埋めた」と呼ばれる地に大阪の玄関駅が立つ。
まちは変わった。それでも、春になれば今も変わらず美しい桜が咲きほこる。水辺の桜は時代の変化を見つめてきた水都の証人だ。
*1「この花」は、通説では梅とされてきたが、梅が日本に持ち込まれたのは8世紀であり、王仁がこの歌を詠んだ時代には存在しなかったことから、桜という説も有力。
「さくらの宮景(浪花百景)」歌川国員画 (大阪府立中之島図書館蔵)
桜宮の一帯は江戸時代より桜の名所だった。その華やかさは上方落語*2や錦絵などに見ることができる。『摂津名所図会大成』には、花の時期には「どんな身分の人も終日舟で宴を開いて遊んでいる。浪花の花見はここが一番だ」というような意味の記述があって、花見と船遊びがセットの楽しみだったことを伺わせる。
盛況の桜宮の対岸にも、もうひとつの桜林があった。津藩の蔵屋敷*3で藩士達が八重桜のコレクションを始めたのだ。対岸の花見風景に触発されたのだろうか。全国から八重桜の珍しい品種を集め、育てていたらしい。
*2大川の花見を題材にした落語として、貧しい長屋の連中が破天荒な花見に繰り出す「貧乏花見」や、
屋形船を借り切った遊び人の豪勢な花見が繰り広げられる「百年目」がある。
*3伊勢の津藩、藤堂家32万石の蔵屋敷。現在の泉布観の北側あたりにあったらしい。
明治18年の大洪水で流された天満橋 (所蔵:淀川河川事務所) 1871(明治4)年、この地に造幣局が建てられた。藩の屋敷はなくなったが、八重桜たちは造幣局の構内に移植されて生き残った。そして、1883(明治16)年、造幣局長・遠藤謹助*4の「局員だけの花見ではもったいない。大阪市民と共に楽しもう」の一声によって、「桜の通り抜け」が始まった。
その後、大川の桜はたびたびの危機に見舞われ、大きなダメージを受けてきた。明治18(1885)年の洪水。「煙の都」「東洋のマンチェスター」といわれた工業都市時代の大気汚染。通り抜けの桜は大正末期にいちど絶滅状態になった。造幣局は桜の専門家を招き、埼玉から苗木を移植した。さらに、1945(昭和20)年の大阪大空襲、高度成長期の公害・・・・桜にとって受難の次期が続いた。
*4遠藤謹助(1836-1893):「長州の五傑」のひとり。井上馨、伊藤博文らとともに幕末期に欧州へ密航留学した。
労働者のためにオープンスペースが開放され、王家貴族も市民も共に花や緑を楽しむ社会に触れたことが、
通り抜けの発案に繋がったのではないか。
それらを乗り越えることができたのは、桜を愛する人々の努力があったから。通り抜けは戦時中一時中止したものの戦後すぐに再開、1967(昭和42)年には毛馬桜之宮公園の整備事業が始まり、大阪随一の桜の名所は復活への道を歩き出す。
いま、桜宮の春は活況を取り戻した。たくさんの船が夜まで行き交い、人は水辺の花見を心から楽しんでいる。あの錦絵や落語のように。
そして、桜が無くとも、誰もが川辺に集い、船に乗り、季節を楽しむ。そんな時代もやがて来るだろう。水辺を愛する人々の取り組みが、確かな足取りとなり、大きな花を咲かせる日も近い。
「水都大阪」は、まもなく長いふゆごもりを終える。
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