第三十六話 おいでやす
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大阪商人のあいだでは昔から、「おいでやす、ごめんやすには蔵が建つ」という格言がある。店に客が入ってきたら、その客が「ごめんやす」と口にするより先に、店の者が「おいでやす!」と声をかけなさい。「おいでやす→ごめんやす」という順番で声が聞こえている、接客の基本がしっかりできているお店は、必ず繁盛して蔵が建つ--といった意味の格言である。大阪の商人はこんなふうに、わかりやすい例え話で、奉公にあがりたての丁稚どんにも理解できるように、商売の基本を教えてきたのである。
「おいでやす」とは「いらっしゃいませ」、「ごめんやす」とは「ごめんください」の大阪弁である。でもこれは、「京都言葉では?」と疑問視する人も多いが、どちらも正しい。なぜなら、生粋の大阪商人言葉ともいえる船場言葉をつくりあげた船場界隈の人々は、もともとは豊臣時代に京都から移住してきた京の町衆だったからである。京都弁と大阪弁が融合したのだから、はんなりした京言葉や女房言葉をルーツとする単語が、今も大阪弁の随所に生きているのは当然だ。時代を経るうちに、はんなり女性的なしゃべり方に、スピードやテンポを重視する商都の合理的なしゃべり方が加わって、船場言葉は成立していったと考えられる。残念ながら、この純粋な船場言葉は、今ではほとんど耳にする機会はない。大阪市内に住む年輩のわずかな人たちや、船場の豪商が別荘地にした芦屋の古老などが使う程度である。こうした古き良き大阪弁である船場言葉らしさを最もよく伝えている著名人といえば、上方落語四天王のひとり、桂文枝師匠だとよくいわれる。口跡(こうせき)も美しく、艶のある女性的なしゃべり口調は、なるほど京と浪花の融合した言葉らしく、実に耳に心地良い。機会があればぜひ、師匠のお囃子入りの上方落語をお楽しみください。
商都大阪は、京都人ばかりでなく、さまざまな地域の商人たちが中世から近世にかけて集まってできた都市である。さきにあげた京都からは、伏見、平野(今の北区)の人々がやってきたし、堺や八尾の久宝寺、淡路島、阿波の国といった地方からも続々と商人がやってきた。これらの人々が住み着いた場所が、現在の大阪市街の町名に残る、伏見町、平野町、淡路町、久宝寺町、阿波座…といった町々である。だから、当然さまざまな地方の言葉が入り乱れ、共通地域言語として精製され、現在の大阪弁は完成していったと考えられる。
おいでやす、おこしやす、ごめんやす、お食べやす、そやさかいに、はすかい、どんつき…などなど、京言葉がそのまま大阪弁として定着している例は多い。もっとも、現在の大阪で、「おいでやす」を使う人は、ほとんどいない。その意味では、もはや死語になりつつある大阪弁といってもいい。美しい大阪弁だけに、残っていってほしいものである。
本日のスキット
老舗の女将と客の会話
客 | 「こんばんは」 |
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女将 |
「おいでやす…。やあ、おひさしぶりで」 |
客 | 「ごぶさたでしたな」 |
女将 |
「さあさあ、はよ、おあがりやして」 |
客 | 「あー、店の中、なんもかんも昔のまんまや。なつかしなー」 |
女将 |
「変わったんは、わたしら二人だけですなぁ」 |
客 | 「いやあ、女将は昔のまんま、べっぴんさんや」 |
女将 |
「その上手なお口も、変わりまへんなぁ」 |
客 | 「なんや、それやったら、あっちの店の方が安いやん。あっち行ってくるわ」 |
女将 | 「ははは、これは生まれつきや」 |