大阪弁ストーリー

地方分権のキーワード・大阪弁

1869年、江戸は東京と改められ、名実ともに首都となった。明治政府の急務は、中央集権国家として、国内の政治的・社会的統一を図ることであった。そのプロセスとして、人々の意識の根幹である言葉の統一、標準化は欠くことのできない要素であった。
それ以前の日本は、藩を中心とした小国の連合体であり、それぞれの国にはそれぞれのお国言葉があったからである。
明治17(1884)年、教育家・三宅米吉は、雑誌「かなのしるべ」で日本語統一の方法を論じ、時間をかけ普及させることを提唱した。
その中核となる言語については、次の三つのアプローチ方法があると説いている。
(1)「いにしえことば」か「みやびことば」を基本とする。
(2)京都か東京の現在用いられている言葉を基本とする。
(3)全国の言葉の中で、大多数の人が話している言葉を用いる。
その後、東京語か上方語かという選択の問題がしばらく続いた。この問題に決着をつけたのは、帝国大学教授・上田万(かず)年(とし)である。同教授は、明治28(1895)年、「標準語につきて」という論文の中で、こう述べている。「現今の東京が標準語としての名誉を共有すべき資格を供ふるものなりと確信す」今からちょうど百年前である。以来、標準語は、学校教育や放送を通じて全国の津々浦々まで浸透した。標準語がわが国の近代化を推進した事実は否めない。反面、標準語は数々の弊害ももたらした。沖縄や東北で見られた、行きすぎた「標準語教育」がそれである。この教育の結果、「標準語は上位の文化であり、方言は下位である」という抜きがたいコンプレックスが、地方の人々の心の中に植えつけられたのではないか。今日の東京一極集中、地方分権の問題が解決しない理由の一つは、言葉にも原因があるのではないだろうか?

出典 NHK大阪弁プロジェクト編「大阪弁の世界」8〜9頁(経営書院、1995年)