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大阪の夏まつりの楽しみ方
ミナミに色づく『お茶屋』文化
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“ミナミに息づく「お茶屋」文化

大阪にもあったお茶屋文化
 最近『お茶屋』が注目を集めています。舞妓の世界に憧れる青年のお茶屋デビューを描いた映画「舞妓Haaaan!!!」(2007年公開)では、人気脚本家・宮藤官九郎氏が脚本を担当。またこの9月にスタートしたNHK連続テレビ小説「だんだん」では、登場する姉妹の1人が京都の舞妓役という設定で、双子女優の三倉佳奈氏が演じています。京都の五花街では今年、一時はなり手が減ってきていた舞妓の数が久々に100人を超えています。
 お茶屋とは、舞妓、芸妓をお座敷に呼んで唄や舞を鑑賞したり、飲食を楽しんだりする酒席のことをいいます。基本的には“一見さんお断り”で、紹介がないと入れない敷居の高さが憧れとなって、今のブームにつながっているようです。
 お茶屋として有名なのは京都・祇園ですが、大阪にもかつては華やかなお茶屋文化があり、それが今も受け継がれていることを、みなさんはご存知でしょうか?


文化発信地だった大阪の花街
 江戸時代、大阪には新町・堀江・北新地・南地の4つの大きな花街がありました。大阪が大大阪と呼ばれた昭和の始めには隆盛を極め、北新地に五百人、堀江に五百人、新町に九百人、そして南地には二千人の芸妓が在籍していたそうです。
 大阪のお茶屋は宴席の提供にとどまらず、地唄舞に代表される上方芸能の伝承者でもありました。また当時の船場の旦那衆は、お茶屋を単なる遊びの場としてではなく、情報交換の場、社交の場としても活用していました。そして芸妓の着る着物は当時の流行を左右し、お茶屋で出される会席料理は食い倒れの街、大阪の名声を支えていました。当時の花街は、大阪における文化発信地としての機能を果たしていたのです。
お茶屋


空襲がハンディキャップに
 大阪のお茶屋文化にとって大きな痛手となったのは、空襲を受けたこと。南地・宗右衛門町で格式を誇った『富田屋』では、戦前までは仲居も髪を結い、裾を引いて、芝居に出てくるような雰囲気だったそうですが、焼けて再建を断念したことで、そうした伝統や文化が失われてしまいました。また再建を果たしたお茶屋でも、建物だけでなく、器、掛物、着物を一から揃え直さないと営業が再開できなかったことは、大きなハンディキャップとなりました。戦後、大阪の花街からは舞妓がいなくなりますが、これは二十歳になると芸妓に襟替えしてしまう舞妓にお金をかけるよりも、その先が長い芸妓のこしらえを優先したためだと言われています。


上方文化の殿堂、『南地大和屋』
 1875年(明治8年)に宗右衛門町に創業した『南地大和屋』は、1910年(明治43年)、三代目阪口祐三郎氏の代に大和屋芸妓養成所(のちに大和屋芸妓学校)を創設しました。そこからは、地唄舞の名手として知られた武原はん氏を筆頭に、次々とスターが生まれました。祐三郎氏は、輩出した才能を活かすためにお茶屋、料亭へと事業を広げていきました。やがて南地の中でも一流という評判が立ったことで、政界、財界の名士の社交場として名を馳せ、皇族や海外の有名人、果ては国賓クラスの要人も姿を見せるようになりました。
  1965年(昭和40年)、四代目女将・阪口純久氏は『大和屋』を五階建てのビルに改築し、二階のフロアに本格的な能舞台を設けました。『大和屋』を上方芸能文化の殿堂とすることで、芸妓の地位を向上させたい、そして勢いを失いつつあった大阪の輝きを取り戻したい、という思いからです。
 そして1983年(昭和58年)には、作家の司馬遼太郎氏を中心に(財)上方文化芸能協会が設立されました。翌1984年(昭和59年)からは、お座敷でしか見られない芸妓の芸を誰もが見られる場として、国立文楽劇場において『上方花舞台』を開催。その後現在まで、継続的に開催されています。

『上方花舞台』舞台写真。右は明治時代の東京の寄席の芸を取り入れ、
名物踊りとなた『大和屋名物、へらへら踊り』 (財)上方文化芸能協会所蔵

 しかしながら、バブル期以降に相次いだ企業の東京進出、90年代末の金融危機により接待利用が激減したことが、経営に大きな打撃を与えました。界隈にバーやスナック、風俗店が進出し、街の環境が悪化したことも、客離れを加速させていきました。『南地大和屋』は2003年(平成15年)に126年の歴史に幕を下ろし、現在は『上方料理 大和屋』として大阪と東京・横浜に5店舗を構え、培ってきた伝統と文化を今に伝えています。


お茶屋文化の保存と継承
 (財)上方文化芸能協会では、『南地大和屋』閉店後も関西財界の後援のもと、上方文化芸能の保存発展、伝統文化行事への一層の参加をはかることを目的に、『上方花舞台』の運営を始めさまざまな活動を行っています。
 一方、京都では、官民一体となってお茶屋文化の保存・継承に取り組んでいます。
 1996年(平成8年)、(社)京都市観光協会と京都花街組合連合会では府、市、財界の支援を得て、(財)京都伝統伎芸振興財団(愛称:おおきに財団)を設立。毎年五花街合同公演を開催し、また伝統芸能後継者の育成、舞妓の募集、ギオンコーナー(京都伝統芸能館)の運営を行うなど、花街を観光の目玉として位置づけています。 さらに現在の法律では、18歳未満の女子がお酒の席で働くことが禁じられていますが、京都市では15歳以上の女子が舞妓として働くことが条例で認められています。



若旦那のチャレンジ
 現在もミナミで営業を続けるお茶屋『島之内 たに川』が開業したのは1969年(昭和44年)。もともと芸妓だった谷川恵美子氏が料亭を買い取り創業しています。1988年(昭和63年)には、黒塀の木造二階建てを四階建てのビルに建て替え、その中に数寄屋造りのお座敷を設けています。

『島之内たに川』若旦那
谷川恵氏

 二代目・恵氏が“若旦那”としてお店に入るようになったのは2002年(平成14年)。お茶屋がすっかり斜陽産業となってからのことです。恵氏は新たに若い人材を一から育成しており、現在3名の芸妓をお座敷に登場させています。恵氏はまた、テレビや新聞などのメディアに頻繁に登場し、ミナミのお茶屋文化を伝えています。また芸妓を派遣してワークショップを開催したり、カルチャーセンターの現地講座を受け入れたりと、一般のお客さんに門戸を開く取り組みを積極的に行っています。
  「大阪のお座敷文化は、唄や踊り、舞だけではありません。正月には十日戎の宝恵駕、6月の住吉大社の御田植神事。7月の天神祭の芸妓船、11月には道修町の神農祭など、芸妓はお茶屋を出て、大阪の祭りに彩りを添えていました。大阪に花街があること、芸妓が今も存在していることは、世間ではあまり知られていません。こうしたことを、できるだけ多くの人に知っていただきたいと思っています。」
『島之内 たに川』お座敷風景
 かつては“お大尽”が支え、今では衰退しつつある大阪のお茶屋文化。その保存・継承に誰が、どう取り組むのか。そこにはまだまだ課題もありそうです。

2009年1月13日(大阪ブランドグループ 山納 洋)


『島之内 たに川』
大阪市中央区島之内2丁目4-29 Tel 06-6211-2219
ブログ「若旦那のお座敷入門」
http://megumu.blog.eonet.jp/megumu/
 

参考文献 南地大和屋 著「大和屋歳時」柴田書店 1996年