第3作 【船場】 昭和60年 1985年 26分
大阪の中心を流れる淀川。その支流である堂島川と土佐堀川の豊かな水の流れに抱かれた中洲中之島は、江戸時代に始まり明治、大正、昭和にかけて開発され、人々が集まり栄えてきた。それぞれの時代を代表する名建築物と美しい景観によって、「大阪の顔」と呼ばれるこの街の真の姿を映像化しようと、1972年、「映画〝中之島〟製作グループ」が結成された。映画プロデューサーの高比良 昇氏を中心に、商業映画やコマーシャルフィルムの作製に従事する関西在住の若い監督やカメラマン約20人が、自分達の住む街大阪を映像化する試みのために、日頃の仕事を離れ、資金を持ち寄って結集した。
76年、様々な困難を乗り越え、4年の歳月をかけて映画「中之島」は完成。現在ではすでに姿を消した数多くのすぐれた建築物を映像に留め、大阪の文化と歴史・経済・社会を丁寧に描いた貴重な作品に仕上がった。
この作品は大きな話題を集め、大阪を愛する人々との間に強い心の絆を生んだ。そして映画「中之島」の制作をきっかけに、地域の文化遺産を伝える仕事を自分達のライフワークとして、「大阪文化シリーズ」と銘うった映画づくりに取組むことになった。
1980年に完成した第2作は、今日の大阪大学の源であり上方の学問の中心であった適塾の歴史を描いた映画「適塾」を完成させ、85年には、400年の歴史を誇る商人の街の姿を描いた第3作「船場」を完成。その後、第4作「大坂城・その歴史と埋もれた謎」、第5作「茶の湯と大坂人」と、3〜4年に1本のペースで次々に作品を生み出していった。
「映画〝中之島〟製作グループ」の作品は、単なる記録映画にとどまらない。豊富な資料の検討に加え、町の古老や識者から熱心に話を聞き、ごく身近なものも見つめ直してゆく地道な姿勢を続けている。完成した作品は無料で公開され、要望に応じて貸出され、幅広い人々に地域の文化遺産を伝え、その意義を問いかけているのである。
「大阪文化を考えるつもりで始めた映画づくりではなかった」と高比良昇さんは言うが、自分達が本当に撮りたい映画を求めてゆくと、心から愛する大阪がテーマに浮かびあがってきたのは当然の成りゆきともいえよう。映画と大阪への熱い愛情を原動力に、地域における「現代の語り部」の役割を担いながら、「映画〝中之島〟製作グループ」の活動は進められていった。
1998年5月、第6作「大坂城平成の大改修 築城の歴史とその変遷」は完成した。しかし、その2ヵ月後に高比良 昇さんは亡くなった。病魔と闘いながら最後まで執念を燃やし続け、上映用の映画のパンフレットもすでに用意されていた。まだ60歳だった。現在、「映画〝中之島〟製作グループ」はご子息の剛氏が代表代理として後を引き継ぎ、映像に記録された大阪の歴史と文化をより多くの人々にみてもらうために、これまでに作製された作品の管理・貸し出し、ビデオの販売などを行っている。
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大阪の歴史:難波から現代へ
大阪は、日本の歴史において重要な役割を果たしてきた都市です。古代から中世、そして近代にかけて、大阪は交易の中心地として栄えてきました。本記事では、大阪の歴史を辿りながら、特に難波(なにわ)地域の発展についてまとめます。
古代から中世の難波
難波には、天平5年に詩が詠まれるほどに、その美しさが語り継がれています。当時の難波は、満潮時には入り江の水が流れ込み、干潮時には逆に潮が引いていくという環境でした。この潮流は、淀川や大和川の沖済み作用を導き出し、大小の島々が形成されるきっかけとなりました。これが「難波の八十島」と呼ばれる地域です。
中世に入ると、難波は中国貿易船が寄港する重要な港として繁栄しました。室町時代にはさらに多くの船が集まり、商業が活発化し、大阪は交易の中心地としての地位を確立していきました。
大阪城の建立と城下町の発展
1583年、豊臣秀吉は大阪城の構築に着手しました。これに伴い、大阪の街づくりも積極的に進められました。大阪城の周囲には、城に仕える人々や商人が住む街が形成され、様々な商業活動が行われるようになりました。
特に、「仙波」地区では、商人たちが集まり、米や材木、医薬品などの取引が行われ、市場が賑わいました。ここでは、商人たちが独自の文化を形成し、町人としてのアイデンティティを築いていきます。また、この時期に集まった大名や武士たちも自らの屋敷を構え、城下町としての栄華を享受しました。
商業文化と教育の発展
大阪は「天下の台所」とも称されるほどの商業文化が育まれました。この地域では、商人たちが厳格な生活規範を持っており、例えば朝食は漬物や冷や飯だけという質素さが求められました(詳しい内容は こちら を参照)。これにより、商業精神が根付いていきました。
また、学問も栄え、懐徳堂などの学塾が設立され、さまざまな学問の発展が見られました。特に、山片蟠桃のような超人学者が多数輩出され、商人たちの教育はますます重要視されていきました。
近代の変化と衰退
第一次世界大戦以降、大阪の生活様式は大きく変化しました。新たに郊外電車が開通し、商人たちは店舗と生活空間を分けるようになりました。この生活の変化は、商人としてのアイデンティティを失わせ、結果的に「仙波」の文化が衰退し始める要因となりました。
このように、難波を中心とした大阪の歴史は、古代から近代へと続く商業と文化の発展の物語です。大阪の街は、商業活動や文化交流の場として、多様な影響を受けながら成長してきました。現代においても、大阪はその豊かな歴史を背景に、独自の文化を育み続けています。大阪の過去を知ることで、今の市民生活や商業活動がどれほどの歴史に根付いているかを理解することができます。


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